--屋号「若松屋」について--




予想に難くないお話で恐縮ですが(^-^;、初代「清五郎」は、「会津若松」からこの地へやってきた、という言い伝えがあります。
家系図の一番最初に「屋號若松屋」と書かれてありますし、相当古い時代から「若松屋」と呼ばれていたようです。
手元資料がないママ、記憶だけでupしちゃうのはゴカンベンを(^^;)←確実情報あり次第、upします。


以下は、kobokeの未整理なメモ的なモノですので、ご了承賜れたく・・・・
このコーナー、家紋に匹敵するくらい難しいところなんですよ。聞いた記憶と、史料と推測。
これらがゴッチャな世界です。でも、書くことは、事実らしい、に基づいて行きたいと思います。後で「嘘ピョ〜ン!!」も、ゴメンしてね(^^;)


当地の市では、「市史編纂事業」というのが長くあり、つい先年、完結しました。太古から現代までの当市の歴史をひもとく資料です。その中に、若松屋についての記載があります。
10年ほど前に読んだ記憶だけで定かではないのですが、現存する「若松屋」は、うちとは別の一族です。
屋号若松屋を使い始めたのは、たぶんうちなのですが、そこから数派派生したと記憶しています。
モトはウチがやっていた「造り酒屋」だったようです。 現在の「若松屋」の中心は、「高橋」さんという一族です。
生存していた年代も定かではないのですが(襲名なのかもしれない)、「高橋七郎兵衛」という方が居て、今でもここは地域の人から「しちろへ」さん、と呼ばれ、雑貨店を営んでおられます。
ほかにも酒屋さんとして、親戚である高橋さんもおられます。
当時、「若松屋」は相当な羽振りであったらしく、士農工商時代の商人であったウチで、南部の殿様より「名字、帯刀」を許されています。そこから、家系図等では南部武士として記録にあるわけですが、商→士と、農工飛ばして出世しているわけです。ウムム。。。

初代からの先祖代々の「戒名」。 これがまたクセモノなのです。
大火災後作成された第2版家系図においてですら、先祖の戒名、「付加」されているんです。
「院号」と言われるモノが、現存家系図に”付加”(加筆)されているのです。
さて。。。謎が謎を呼び、サッパリわけわからんようになりかけてますが。。。。(^^;)
ここには、すべてをそのまま書いたワケではありません。「(kobokeが)分かったぶん」だけを、まずは書いております。




以下は、あくまでkobokeの推測、予想の範疇を出ないモノでありますが・・・・

・先祖は、会津若松より「落武者・脱藩」等してきた浪士ではないか?
・他藩へ入った以上、以前の身分を隠し「商人」として財をなしたのでは?
・財をなした結果、現在の主である南部家へ多額の献金をし、「地位を買い、復権を果たした」のではないか?


こういうことが、次々と感じられるのです。(もちろん、勝手な思いよがりかもしれません)
記録の好きだった喜陸さん。5世代前の昔語。自分の見聞きしていること。それらを総合すれば、「なにがどうなったのか?」その真実を、彼が知らなかったハズはない!と、kobokeは感じます。
先祖のやんごとなき事情により会津を離れ、この地に身を伏せた。幸いにして商いも大当たり。そこで、「イケイケ商人」より、絶対分の悪い貧乏「武士」の地位をワザワザ買う。そこには、会津時代の「何か」があったからこそではないか!?

家系図には、何も書かれてありませぬ。
残っている手がかり。
それは、追記された”院号”。公式に記された「市史」。探し得るだけ捜した結果の様々な史料。それらを伝え聞いている昔語り。。。
それらだけが、「事実」を寡黙に語ってくれるように感じられます。 謎が、謎を呼ぶ。。。。

だ、だれか!「こうなのさ!」って、教えてちょ〜ダイ!!!<(_ _)>



喜陸さんが「記録」したいわれ

系図(抄)

「池田屋備前蝶」について

「盆礼(ぼんれい)」という習慣



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