--喜陸さんが「記録」したいわれ--



「冬女」に婿養子入りした「喜陸(文化3(1806)年8月23日生。鋭太郎の曾祖父)」が、5代遡った初代「若松屋清五郎 (享保10(1725)年7月4日没)」からの家系図を作成した。
その跋文の(無責任)現代語抄訳:koboke(^^;)。分かりやすくするため、若干補完もしています。

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妻「冬女」の祖父の妹「吉女」、同弟「弥助」、妻の母「俊女」らの昔語りを聴くたびごとに書き記し、
また妻の祖父「弥三右エ門」が書き記したものを調べ、弥三右エ門の「深切の志」を継いで集録して置いたところ、
明治6年6月13日22時頃出火した火災で市街200軒焼亡。これにより一切を消失した。
68歳になり、目も筆もおぼつかなくなった私「喜陸」は我が嫡男「良哉」をして書記せしめ、これを授け与える。
これは血統子孫が知り覚えるためである。手抜かりは後の者補うべし。以てつまらぬ仕事を演じ思いを述べる。
神武天皇即位紀元二千五百三十三年明治六年癸酉十一月
            喜陸良忠  68歳これを集録す
      校合   小七郎寛治 67歳(喜陸妻の伯母「雪女」の孫)
      校合   文平寛重  66歳(喜陸妻の祖父「弥三右エ門」の姉「藤女」の曾孫)

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とのこと。
「喜陸」が申し述べた所を記録した長男「良哉(えたろ祖父:天保3(1832)年5月21日生)」の筆になる実物が、今に伝わっております。
跋文の最後に、子孫としてなかなかに襟を正しめられる表現がありますね。
原文はこうです。

「惟血統子孫為知覚也粗漏者後之者可補以鄙言演寓意云」


「後之者可補」とは、(系図の補完を)「やってもいいよ(可)」ではなく「やれ!(可)」ですわ(^^;)
お番茶会にはその使命があるやもしれませぬ。
誰ぞ、筆と漢文に覚えのある御仁、おりませぬかぁ?(^^;)
最後の記載が125年前(1999年10月現在。あと1ヶ月で126年)。そのとき生まれたえたろさが、お番茶会の曾祖父。
いよいよもって、お番茶会世代で「追記」しておかなければ、失われてしまうでしょう。
だ、誰か、筆を執ってくれぇ!!!調べるのは、ワシやるっす(^^;)書くのだけはご免して(__;
やっぱ、書くのは、嫡男では?????(^^;)ウマいヘタはともかく。。。


   〜おまけ〜

-「喜陸(きろく)さんは記録(きろく)が好きだったそうだ」-

と、「曾々孫」世代である「お番茶」まで、綿々とダジャレが相続されておることを申し添えておきますル・・・(く。くだらない・・・(^^;)でもコレも歴史か!?かけがえのない「記録」として、ここに留めておきまする<(_ _)>)



系図(抄)

「若松屋」とは?

「池田屋備前蝶」について

「盆礼(ぼんれい)」という習慣



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