豊口 鋭太郎(とよぐちえいたろう 1873-1952)
〜県の教育振興に貢献〜



 27歳の若さで大湯小学校長、ついで毛馬内小学校長となり、間もなく師範学校
付属明徳小学校の首席訓導に招かれ、近代教育確率期の指導者として活躍した。
その後、県内小学校長・視学等を歴任して優れた教育実践と特色ある学校経営を
展開し、初等教育研究の中心に立ってこれを推進した。
 後に、秋田県教育会長に選任され、会の改革、教育会館建設、ヘレンケラー来秋
の実現等教育行政面でも敏腕を振るい、教育振興に多大の貢献をした。更に
帝国教育会理事として昭和12年東京で開催の世界教育会議を運営し成功に導い
た功績は大きい。


 明治6年 毛馬内、豊口木曽弥(鹿角郡内小学校長・県議)の長男として出生。
    28年 秋田県尋常師範学校卒業。
    33年 大湯小学校長(27歳)、38年毛馬内小学校長となった。
    43年 秋田県師範学校付属明徳小学校首席訓導に抜擢された。
大正〜昭和 旭南・横手・大曲各小学校長や県視学を歴任して昭和5年退職。
昭和初期  日赤秋田支部主事兼愛国婦人会秋田県支部主事として支部再建に尽力した。
    11年 秋田県教育会長、帝国教育会理事となり教育会問題解決に手腕を発揮した。
    22年 病に倒れ帰郷して療養していたが、27年死去。享年79歳。


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